インタビューは、横浜市にある日本ビクター株式会社で行った。
 2つのドライバーを並列に配置し、一体化した「ツインシステムユニット」と、中高域用の振動板に先端素材の「カーボンナノチューブ」の採用と、業界初の試みを2つも実現したことにより、この春に発売されたインナー・イヤー・ヘッドフォンの中では非常に話題となった「HA-FXT90」。前回のレビューでは試聴インプレッションを中心にした製品紹介を行なったが、今回は予告どおり、開発スタッフへのインタビューをお送りしよう。

 この画期的なヘッドフォンがいかにして誕生したのか、その真相を知るべく、我々取材班は横浜にある日本ビクター株式会社を訪ねた。インタビューに応じてくれたのが、企画担当の澤田孝氏と、技術担当の田村信司氏の両名。

アイディアの源はオーディオ用マルチウェイスピーカー

 そもそも「HA-FXT90」がいつ頃から開発に取り組んだのか聞いたところ、「企画構想というところからだと約2年になります」と澤田氏が答えてくれた。「HA-FXT90」に搭載しているドライバーは、昨年発売された「HA-FXCシリーズ」に採用されていた「マイクロHDユニット」を土台にしたものだということは前回のレビューでも既報したが、最初からこの小型ユニットを使うという前提のもとで開発が進められたわけではなく、それ以前から複数のドライバーを使うというアイディアはあったのだという。

 “まだ企画の段階ではマイクロHDを使うという想定はありませんでした。実は既存のマルチウェイスピーカーの構造からヒントを得て、分離の良さや豊かな表現力を密閉インナー・ヘッドフォンで実現できないか、技術部と相談していたんですよ。それを受けて技術部が試作機を作り始めたのですが、最初の頃は一般的なサイズのドライバーを組み合わせていましたね”(澤田氏)。

 “事前段階では一般的なサイズのドライバーを使って試作を行いましたし、あるいは大きいのと小さいのを組み合わせるとか、いろんな実験をしました。多種多様なバランスで組み合わせてみて、その中で高音質再生と快適な装着感の維持の両立を模索しながら、検討していましたね”(田村氏)。

  • AVコミュニケーション統括部 事業推進部 商品企画グループ 澤田孝氏
    AVコミュニケーション統括部 事業推進部 商品企画グループ 澤田孝氏
  • AVコミュニケーション統括部 技術部 第1設計グループ 田村信司氏
    AVコミュニケーション統括部 技術部 第1設計グループ 田村信司氏

 オーディオ用スピーカーの場合、一般的に高域を担うツィーターは小口径で、低域担当のウーファーが大口径のものが採用されているが、初期の開発段階ではそういったバランスも実験されていたということになる。その中でビクターとしては「原音探究」という事業理念を掲げているため、もちろん音質面での妥協は許されない。そこで、終始こだわったスペックが「ダイナミック型」のドライバーユニットだった。

 “なんとかダイナミック型の迫力を保ちつつ、装着感の問題をクリアして、音の良さをうまく引き出せないかなというところが、このモデルのテーマだったのではないかなと思います”(澤田氏)。

「HA-FXT90」を分解したサンプル。
「HA-FXT90」を分解したサンプル。

 

「マイクロHDユニット」のノウハウを活かした2つの小型ドライバー

 装着感のところで悪戦苦闘する中、問題を打破する手掛かりとなったのが「マイクロHDユニット」である。これは前述のとおり、昨年発売された「HA-FXCシリーズ」に採用されたもので、ドライバーユニットの口径は5.8mmと非常に小さいところが特徴だ。これを採用する決め手となったのが、2つのドライバーを同口径にしても、互いの音域特性を変える技術をビクターが開発したことである。

 “ただ「HA-FXT90」に搭載したドライバーは、「HA-FXCシリーズ」で採用したドライバーを土台にしていますが、振動板の素材や厚み、ボイス・コイルのターン数、マグネットの磁力、その他の各部品など、すべて「HA-FXT90」専用に新規開発しています。さらに「ツインシステムユニット」には、低域用と中高域用のドライバーがあるので、それぞれのスペックも変えてあります。また、音調整に関しても1個1個のパラメーターをマトリックス上で作っていって、調整しております”(田村氏)。

 

先端素材「カーボンナノチューブ」

 低域用と中高域用のドライバーにおいても、それぞれの音域特性に合わせて、振動板の素材や厚み、ボイス・コイルのターン数、マグネットの磁力といったスペックを変えているという。その中で気になるのが振動板の素材だ。中高域用のドライバーに「カーボンナノチューブ」をコーティングしているところが「HA-FXT90」のセールスポイントとなっているが、開発段階では別の素材も試していたという。

 “まず低域用のドライバーには「HA-FXCシリーズ」で評価をいただいていたカーボン素材の振動板を使いました。そして中高域用はどうするかということで、クリアで伸びのある高域を出すために、剛性及び固有振動数の高い素材を使うのがいいのではないかということになり、最初は金属に目を付けました。それで最初は金属を蒸着した振動板を試してみたのですが、やはり私としてはもっと緻密で細かい音が出せるような素材はないかということで、その音を実現させるためにもっと応答性の高い振動板はないかといろいろ調べました。その結果、「カーボンナノチューブ」を使ってみてはという案が出てきました。弊社では新しいアプローチでしたが、ぜひともチャレンジしてみようということになりました”(田村氏)。

左側のピンクの補填材が「カーボンナノチューブ」振動板(中高域用)、右側が「カーボン」振動板(低域用)。
左側が「カーボンナノチューブ」振動板採用の中高域用ドライバー
右側が「カーボン」振動板採用の低域用ドライバーの背面写真

 “カーボンナノチューブは先端素材のため、コーティングの際、膜厚を均一にできるかとか、製品のバラツキに関わってくるので、そういったことを課題にしながら、本当に最初からこの技術に取り組んだと言えますね”(田村氏)。

 「カーボンナノチューブ」は、高い剛性で応答性に優れた特性をもっているという。気になるのがその音質だが、蒸着以外のスペックをすべて同一条件にして、通常のカーボンのものと聴き比べたら、どのような違いが出るか、田村氏に聞いてみたところ“「カーボンナノチューブ」の方が素材が硬く軽量なので、反応に優れていて、緻密な音まで出力してくれます”(田村氏)。

  • 内部が銅褐色になっているのが「カーボンナノチューブ」振動板。
    内部が透けて銅褐色になっているものが「カーボンナノチューブ」振動板。
  • 内部が濃い目の銅褐色になっているのが「カーボン」振動板。
    内部が透けずに濃い目の銅褐色になっているものが「カーボン」振動板。

 

制振性を高めるための工夫〜メタルユニットベース

 2つのドライバー開発に試行錯誤しているのと同時に、取り組まなければならなかったのが、その2つのドライバーの固定方法。ドライバーの特性を最大限に活かすためには制振性を高める必要があったという。筐体に2つのドライバーを配置するという方法もあったのだが、“ただそうすると、このユニットで目標としていた音をきっちり出すことができなくなる。そのためにはきっちりと保持して固定するための土台が必要だろうと。最終的には制振性を高めるために金属製のユニットベースで保持するという方式を採用しました。2つのドライバーをしっかりと固定し、ひとつのユニットとして機能させ、狙いの音を再現させる……これが「HA-FXT90」の特徴でもあるんです。制振性を高めるためのノウハウについては、弊社ではハイブリット構造など、これまでに発売した製品の中で培った技術があるので、それらのノウハウを活かした形になります。”(田村氏)。

 企業秘密だろうなと思いつつも金属ベースユニットの材質を尋ねたところ、“銅合金を使いました。この材質を選んだ理由が加工性と比重です。ユニットを硬く保持するためにも比重の重さは大事なのですが、その一方でベースユニットを小さくしないといけない。そうするとコンマ何mmの世界で成形をしなければならないので、加工しやすい材質が必要でした。その条件に合致したのが銅合金でした”(田村氏)。

 また、ベースユニットだけでなく、ボディ後部にも金属製のハウジングを使うことで、ユニットの不要な振動をおさえるようにしているという。

「メタルユニットベース」に収められた中高域用と低域用ドライバー。
「メタルユニットベース」に収められた中高域用と低域用ドライバー。

 

最終判断は「人間の耳」〜音調整での苦労

 冒頭でマルチウェイスピーカーの話をしたが、「HA-FXT90」ではオーディオ用の2ウェイスピーカーに備わっている帯域分割用のネットワーク回路を使っていない。ドライバーは低域用と中高域用に分かれているが、いずれもダイナミック型のため、完全に各々が中高域のみ、低域のみという振り分けにはならず、極端な例で言えば2つのフルレンジ・スピーカーが鳴っている状態となっている。しかしながら、両者ともに担当音域が強調されるような音調整が施されており、例えば中高域用ドライバーを個別で聴いたら、中高域寄りの音色傾向だということをはっきりと感じられるように仕上げられているという。

 ドライバーが2つあるということは、音調整の際に片方を変更すれば、もう片側にも関わってきて、通常の1ユニットのものより時間が掛かったのではないかと想像するのだが……?

 “まさしくその通りで、例えばひとつのドライバーのパラメーターが10個あったとしたら、試さないといけない組み合わせは10の2乗になりますよね(笑)。全部をカット&トライという形でやり、ひとつ変数を変えたら、また聴いて、次のパラメーターへ移動して、という繰り返しでしたね。これに加えて今回は「カーボンナノチューブ」という新しい試みをしていますから、これのバランスを最適化するのにも苦労し、とにかく時間が掛かりました”(田村氏)。

 また、実際の音調整というものは、どのようにやっているのか、気になるところだ。

 “まずは測定器を使って、音圧、周波数などの測定を行います。その測定器だけでなく、聴感上でも目標の音を目指してやるのですが、それを含めると実際に試作し、さらにその前の段階で金属蒸着の振動板も試していたので、トータルでは100台以上になったかと思います。”(田村氏)。

 音作りにおいては、ソフト制作を行うビクターならではの強みもあるようだ。

 “ビクターのグループにはレコーディングスタジオがあります。そのスタジオがいろんなオーディオ商品を評価するための標準となる音源ディスクを作りまして、それを試聴の際の音源として使っています。そのディスクにはいろんなジャンルの曲が含まれておりますが、共通のリファレンス・ディスクがあることで、社内で確認作業を進めるにあたり、円滑に行なうことができるのです。同じ音源をみんなが聞いているわけですから、例えば収録されている楽曲のバスドラの音がどうだとか、意見を言った際に、すぐに分かりますよね。ただ試聴テストでリファレンス・ディスクだけを使っているわけではなく、商品のターゲット・ユーザーが好むと思われる楽曲も当然チェックしています。今回の場合はJポップなどを聴きましたね”(澤田氏)。

 ちなみにターゲット・ユーザーの年齢層に合致する田村氏はというと、“オアシスとか、洋楽を中心に聴きましたね(笑)”とのこと。

右が製品版。左が初期のプロトタイプで、この段階ではメタルベースユニットが採用されておらず、筐体自体も大きい。
右が実際の製品。左が初期のプロトタイプで、
この段階ではメタルベースユニットが採用されておらず、筐体自体も大きい。

 

見た目や構造は先鋭的、音は自然体

 開発初期段階では、大型のダイナミック型ドライバーを検討していたため、装着感において苦戦を強いられていたが、「マイクロHDユニット」に端を発する小型ドライバーの採用により、筐体をコンパクトに仕上げることができ、付け心地が非常に良いものに仕上がったということだ。またボディをスケルトン仕様にしているところも本機の大きな特徴と言えよう。ボディ内から「ツインシステムユニット」が透けて見える様は、所有感を満たしてくれ、思わず周囲の人に見せびらかしたくもなるのは筆者だけであろうか!

 構造だけでなく、外観においても先鋭的な仕上がりを見せているが、本機の音については、突出して特定の音域が強いとか、そういったところがまったくなく、ごく自然な響きを放ってくれ、個人的には好感を持っている。“一体感のある厚みのある音……「高密度」という表現で弊社では謳っていますが、そこの調整がうまくいったと自負しております。個人的には、自然で臨場感のある音作りと感じています”と澤田氏が仕上がりへの感想を述べてくれたが、「自然で臨場感のある」というニュアンスは言い得て妙で、大いに賛同する。ターゲット・ユーザーが若者だが、レコード世代にとっても、この中高域の抜けの良さは魅力に感じるはずだ。

 最後に読者に向けてのメッセージを澤田氏、田村氏の両名から頂いたので、それで締め括りたいと思う。

 “今の若い人たちは、本物のモニター・ヘッドフォンや大きいスピーカーで鳴らした音を聴く機会があまりなく、聴いているのがDAPの音がというのが主流。そういう状況をふまえると我々はAVメーカーとして、「本当の音」をちゃんと伝えられるようにしないといけないと思うんです。”(澤田氏)。

 “見た目と構造は独特ですが、一度聴いていただいて、実際の音がどういうものなのか是非とも体感していただきたいです。私の強い思いを投入することができた自信の製品です。是非皆さんに使っていただける1台に加えていただけると幸いです”(田村氏)。

左が商品企画の澤田氏、右が技術部の田村氏。世代は違えど、製品作りに対する熱い気持ちは同じ。
左が企画担当の澤田氏、右が技術担当の田村氏。
世代は違えど、製品作りに対する熱い気持ちは同じ。
(text by ashtei)

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