ビクターのインナー・イヤー・ヘッドフォンと言えば、さまざまな新しいスペックを盛り込んだ仕様により、とことんまで原音(いわゆるアーティストがレコーディングスタジオで創り出した音)の再生を追求している……そんなイメージを持っているのは筆者だけではないであろう。
これまでにリリースした製品の中で特に印象的だったものを列挙すると、ドライバーユニットとハウジングにアルミを採用した「HP-FX300」(2007年)、世界初の木の振動板を搭載したドライバーユニットとハウジングを採用した「HP-FX500」(2008年)とその上位機種の「HA-FX700」(2010年)、小型ドライバーユニットの採用により耳穴の奥にまで深く入れることが可能なトップマウント構造を持つ「HA-FXCシリーズ」(2010年)などがあった。
いずれの製品もスペックを見ただけで興味がそそられる内容で、さすがは老舗オーディオ・ビジュアル・メーカーと唸らせるものがあり、真摯に開発している姿勢には感服させられていた。
これまでにインナー・イヤー・ヘッドフォンに新風を起こしてきたビクターが、またもやオーディオ・ファンの興味を掻き立てるような画期的なスペックを備えた新製品をリリースしてくれた。それが4月20日発売予定の「HA-FXT90」である。このヘッドフォンには業界初となる2つのスペックが採用されているところが注目だ!
この製品の魅力を1回のレビューでは伝えきれないと判断し、前編/後編の2部構成でお送りする。前編では試聴インプレッションを中心にした製品紹介、後編では開発スタッフに取材を敢行し、先進の技術を根掘り葉掘り聞き出そうと思っているので、お楽しみに。
まずは「HA-FXT90」に導入された新開発のスペックを見ていくことにしよう。
「レコーディングスタジオで録音されたマスター・テープの音を忠実に再生し、原音の感動を伝えたい」。これがビクターの事業理念として掲げる「原音探究」で、音づくりの共通テーマとなっている。この「原音探究」を実現すべく、これまでの製品ではさまざまなアプローチで開発が行なわれてきた。例えば前述した「HA-FXCシリーズ」の場合は、小型化したドライバーユニットをヘッドフォンの先端部に持ってきて、耳の奥深くに差し込むことによって、鼓膜との距離を短くすることで、「濁りのない、解像度の高い音」を実現してみせた。
今回の「HA-FXT90」で目指したアプローチが「厚みのある、高密度な音」で、これを実現すべく開発されたのが「ツインシステムユニット」である。機能的なポイントとしては、ユニットベースの中に、2つのドライバーを並列配置し一体化しており、振動板が中高音域用と低音域用のものに分かれているところが最大の特徴だ。これまでにドライバーを2基にした仕様は他社製品でもあったが、ダイナミック型で、しかも並列配置という離れ業をやってのけたのは「HA-FXT90」をおいて他はない。
ダイナミック型のドライバーユニットの場合、物理的な大きさが問題で並列配置することは困難と思われていたが、ビクターには「HA-FXCシリーズ」で採用した超小型の「マイクロHDユニット」の技術があったので、実現に至ったわけである。言うまでもなく、これは業界初の試みだ。ちなみにドライバーのサイズは中高音域、低音域のどちらも5.8mm径だという。
低域用ドライバーはカーボン振動板を採用。一方の中高域用ドライバーには、カーボンナノチューブ振動板を採用しているところに注目! カーボンナノチューブは、先端素材として注目されている軽量で剛性の高い素材。一部のオーディオ・スピーカーでも採用され始め、話題となっている。ちなみにヘッドフォンにおいて、同材が採用されたのは「HA-FXT90」が業界初である。その音質特性だが、レスポンスに優れ、歯切れの良いサウンドを再生するという。
なお2つのドライバーを搭載しているが、2ウェイ・スピーカーのようにネットワーク回路で音声信号を帯域ごとに分割する方式を採っておらず、中高域用ドライバーと低音用ドライバーには同一の音声信号が送り込まれている。それぞれの帯域に合わせて最適化された2種類の仕様のドライバーを組み合わせて音色調整をしているというところも特徴的だ。
当然これによって重なる帯域も出てくるが、それをもうまく利用し、高密度で厚みのあるサウンドを実現させたという。各ドライバーは、制振性に優れた金属製ユニットべースに組み込まれており、不要な振動を抑えている。
基本スペックは、インピーダンスが12Ω、出力音圧レベルが107dB/1mW、再生周波数帯域:8〜25kHz、最大許容入力:150mWとなっている。ケーブルは1.2mのY型で、プラグはL型のステレオ・ミニ(金メッキ仕上げ)。シリコン・イヤー・ピースはL/M/Sという3種類のサイズが用意され、キャリング・ケースや長さ調節用のキーパー、タッチ・ノイズを抑えるクリップも付属する。
初めて見た印象だが、「ツインシステムユニット」というからには大きいのかと思いきや、かなりコンパクトに仕上がっているなと感心した。筆者が常用している13.5mmドライバーを搭載した国内メーカー製のカナル型イヤフォンより全然小さいし軽いので(重量:約6.8g)、耳への負担が少なく、装着した感じも非常に良い。
カラーはブラックとレッド(限定モデル)の2色。レギュラー・モデルのブラックは、見た目がシックで硬派なイメージ。これに対して限定モデルのレッドは、ボディのオーナメントだけでなく、編組ケーブルまでメタリック・レッドに彩られているのだが、色目が派手過ぎず落ち着いているので、スーツ着用の大人が付けてもコーディネイトの心配はないだろう。特筆すべきが、両モデルともボディ部がスケルトンになっているところで、「ツインシステムユニット」が搭載されている様子を覗くことができるところで、ちょっとテクノっぽい感じがして非常にカッコいい。
試聴には第5世代iPod(30GB)を使用。試聴した曲は、いずれもMP3フォーマット/160kbpsの音源を用いた。ちなみに筆者はギター系の音楽誌で活動しているライターゆえに、得意ジャンルは当然ロックとなる。
まず最初に、特に選曲せずにシャッフル・モードで適当なロック・ナンバーを聴いていたのだが、まず驚かされたのが音抜けの良いところだ。普段使っているカナル型イヤフォンで設定している同じ音量で聴いていたのだが、あまりにも音量感が増しているように感じたため、思わずプレイヤー側のボリュームを下げてしまったくらいだ。続いてはセレクトした楽曲を自宅で聴いたインプレッションを述べたいと思う。
――「グッド・カンパニー」(『オペラ座の夜』/クイーン)
故フレディー・マーキュリーではなく、ギタリストのブライアン・メイがウクレレを弾きながら歌う、ディキシー・ジャズ風のナンバー。ブライアン・メイがエレキ・ギターでクラリネットなどの吹奏楽器に似せた音を演じ、それを幾重も重ねて録音されているのだが、各楽器の音色ひとつひとつが聴き取れる上に、その描写力も素晴らしい。特にトランペットやトロンボーンの擬似音では、ギターに掛けているワウ・ペダルを踏んでいるニュアンスまで想像できちゃいそうなくらい、音色の変化をしっかり捉えている。終始踏みっぱなしのバス・ドラムの重いサウンドがボヤけることなく、タイトに響いているところも優秀だ。
――「So What」(『The Pizza Tapes』/ Jerry Garcia, David Grisman,Tony Rice)
マイルス・デイヴィスの名曲をアコースティック・ギター2本とマンドリンにより演奏。このアルバム自体、リハもミキシングもなしで、限りなくデモ・テープに近いクオリティで録音されたものだ。ピックのこすれる音、指板上でグリッサンドした時のフィンガー・ノイズ、マンドリンの空ピックでコード弾きした時の箱鳴りしている感じなど、とにかく3本の弦楽器の響きが生々しく伝わってくる。まるで目の前で演奏しているかのようなライブ感が味わえる。この再生能力は只者ではない。特にアコギの高音弦を弾いた時の針金をはじいたような金属音がゾクゾクするくらいに気持ちがいい!
――「ラプソディ・イン・ブルー」(『ザ・ベスト・オブ・ジョージ・ガーシュウィン』/ジョージ・ガーシュウィン)
ピアノ独奏と管弦楽によるガーシュウィンの代表作。低音からのグリッサンドで奏でられる冒頭のクラリネットのサウンドが実に表情豊かで、いきなり気分が盛り上がる。オーケストラだけに、いろんな楽器が一斉に鳴らす場面のある中、各楽器の音それぞれを判別できる再生能力があり、しかも定位も感じ取れるところも素晴らしい。かなりピアニッシモ気味に叩いているスネアの音も、他の楽器にかき消されることなく、しっかりとモニタリングできる。十分な迫力を伝えながらも、低域がボヤけることなく、全体を通して密度の高い音像に仕上がっているという印象だ。
――「ワイルド・ホース」(『スティッキー・フィンガーズ』/ザ・ローリング・ストーンズ)
ストーンズにおけるアコギ・バラードの代表曲。アコギとドラム(特にスネア)が前面に出てきて、ミック・ジャガーの歌の音量レベルがこんなに小さかったのかと、今まで気づかなかったことを「HA-FXT90」を通して聴いてみて再発見した。左右に振り分けられて録音された2本のアコギは、低域成分の少ないシャリシャリな音なのだが、高域が耳に付かない程度のいい塩梅に収まっており、いかにもギブソン系特有の持ち味を再現できている。またオブリで入るミック・テイラーの鼻に詰まったようなファズ・サウンドが、いい味を出していること! ギターの音は、特に歪んでいる時は中域の出方が最重要ポイントとなるのだが、そこの再生能力において、本機は非常に相性がいいと感じた。
この他にもジャミロクワイやオアシスなどを試聴してみて、至った結論はモニタリングしやすい音色に仕上がっているということであった。初めて聴いた時に受けた「音量感があるな」という印象は、中高域がしっかり出ている賜物であったのだと。また低域がオーバーなくらいボンボン鳴らず、比較的タイトなところは、個人的には好みであった。最初は「ツインシステムユニット」と聞いて、極端にドンシャリ系の音がするのかと想像したが全然違い、非常にワイドレンジで、例えるならこれまでのイヤフォンにカンフル剤を打ち、耳触りの良さを保ちつつも、ややマッチョにし、音に厚みが増した感じ。この絶妙な音の仕上げ方に、老舗AVメーカーの底力を見た気がする。
「HA-FXT90」の気になる価格だが、1万円を切るそうだ。なおレッド・モデルは3,000台限定となるようだから、気になる方は急ぐべし!
(text by ashtei)